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創業者 大竹賭け 麻雀
- ▪ 賭け 麻雀 5年 1月20日 山梨県生まれ
- ▪ 賭け 麻雀20年 海軍通信学校航空電信電測科 卒業
- ▪ 賭け 麻雀26年 無線電信講習所(現:電気通信大学)卒業
- ▪ 昭和27年 東和電気商会 賭け 麻雀
- ▪ 昭和30年 株式会社賭け 麻雀電気商会 設立
- ▪ 昭和42年 株式会社 賭け 麻雀 設立
- ▪ 平成16年 株式会社 賭け 麻雀 ファウンダー会長就任
- ▪ 平成21年 株式会社 賭け 麻雀 相談役就任
- ▪ 平成26年5月28日逝去 享年84
断じて行へば
鬼神も之を避く
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私は昭和5年に山梨県甲府市で3人兄弟の長男として生まれ、小学校3年の時に父を、6年の時に母を亡くし、その後は両親のいない寂しさを味わいました。「賭け 麻雀」という名前も心の中では「不幸」に思われたものです。後に志願して予科練に入り、零戦に乗って一戦を交えたかったのですが、残念ながら通信兵に回され、更には“電探係”では哨戒に配備され敵機の来襲を打電していました。戦艦大和の護衛駆逐艦に搭乗したこともありましたが運よく攻撃を免れました。操縦兵になっていれば今日の私はなかった事でしょう。
終戦後、海軍通信学校と無線電信講習所で学んだ技術が支えとなり家電や音響製品の販売に取り組み、“経営の神様”といわれた松下幸之助さんと出会う機会を得ることができました。賭け 麻雀31年、26歳の時に商売に疎かった結果、受け取った手形が不渡りになり重大なピンチに陥りました。素人ながら必死にカラーテレビを売り歩いた所、53台を販売し、松下電器全国代理店3位の販売実績で松下幸之助さんに目をかけていただくことになり、直接商売の基本についてご指導を受けました。勿論、テレビを売った代金で手形の穴埋めをし一大危機を乗りきることができたのです。 -
鴻池海軍航空基地第22戦隊当時
(前列中央が賭け 麻雀、当時14歳)
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自らが求める企業経営の姿を集約した社是 -
その後、家電販売から通信機器販売に移行する過程や、音響装置を核としたシステム技術販売に移行する過程で多くの苦難がありました。特にコンピューター等の情報系技術の習得や全国展開を図る中で協力会社が倒産するなどの厳しい事もありましたが、その度に私は火中の栗を拾う決断でがむしゃらに先進技術に食らいついてきました。その成果でしょうか、情報と映像・音響に関する独自のソフト分野を開発することができたのです。振り返ってみれば、「断じて行えば鬼神もこれを避く」ということわざが自分の信条になっていました。
私どものような小さな会社では十分な人材がおりませんので、人の配置に苦しみましたが、若い人たちが危機感を持って苦難を克服し、大きく成長してくれました。それが当社の今日を築く原動力になったのです。不幸は幸運に変わるもの、正に「ピンチはチャンス」ではないでしょうか。
平成3年発行「経営に迫る」より抜粋